※悲しい未来を知っているからの続きのつもり
猫を保護したと言っていた。会ってみてよ、とも言っていた。猫について興味がなく、適当に返事をしていたせいで、屋敷に猫を連れてくる約束にも頷いてしまった。「本当に連れてくるけどいいの」と呆れながら確認をするナマエに、リオンは黙ってもう一度頷いた。ナマエはしばし驚いた後、笑顔を見せた。それを見ることができたから、まあ悪くないか、とリオンは思う。以前のリオンであれば、部屋の中に猫を連れてくるなんて考えられない話だった。ただ、ナマエと会う機会が増えるならば、という気まぐれで了承した。
後日、猫を入れたケージを携え、ナマエは屋敷にやってきた。ナマエを玄関で迎えるリオンは彼女が持つケージに目を向ける。かまぼこ型のケージは、蓋の部分が格子状になっていた。中の猫は黒猫のようだ。奥に縮こまり、黄色い目をきょろきょろ彷徨わせている。暗闇の中に目が浮き出ているようにも見える。リオンの様子を窺うように見つめる黒猫。リオンも視線を返し、しばし見つめあう一人と一匹。ナマエはお土産のケーキを控えていたマリアンへ渡していた。「ティーセットを用意して、リオン様のお部屋までお運びしますね」「ありがとう、お願いします」と、にこやかなやり取りを終え、リオンと共に二階の自室へ向かった。
リオンは自室の扉を開けて、中に入るよう伝える。ナマエは無駄に律儀なところがある。リオンの許可を得てから行動することが多い。「おじゃまします」と部屋へ入ると、「座っていい?」の後にリオンの執務机の椅子に腰掛ける。リオンも自身のベッドに腰掛けた。ナマエはケージの猫をリオンに見えるように膝に抱えている。黒猫は格子に近寄り、再度リオンを凝視する。
「クロスケ、リオンに興味あるみたいだねえ」
ケージに顔を寄せるナマエ。格子に人差し指をかざすと、クロスケと呼ばれた猫が鼻をくっつけた。
「クロスケ……」
「この子の名前。いいでしょー」
「安直だな」
「なんですってー、だったらリオンが考えてよ」
軽口を叩き合い、少しして、リオンに不敵な笑みを見せるナマエ。
「折角だし、ちょっと触ってみる?」
「いや、そこまでは……」
断ろうとすれば、思い切り悲しげな顔をするものだから、リオンは「分かった」とため息をついた。大げさに表情を作って、本気で悲しんでいる訳ではないのは分かっていたが、リオンはナマエに甘かった。「やった」とにこにこ顔でケージから猫を持ち上げるナマエを眺めながら、リオンは思いをはせる。婚約の話を、いつ切り出そうか。
二人は親同士が決めた許嫁であった。最初は不満しかなかったリオンを見て、親の立場的に優位にあるナマエが、結婚できる年齢になるまでに縁談を断ることを約束していた。定期的に二人で交流していく内に、ナマエに心を許していったリオンは、それを悔やんでいる。約束をどう撤回させようか。…ナマエも自分の気持ちに気付いているはずなのに、こういう時だけ気が利かない、などとぐるぐる思考が巡っていく。
ナマエが猫を抱えて移動し、リオンの横に座った。
「ほら、触ってみてよ」
距離が近いことに、気恥ずかしさが生まれる。喜びやら、胸の高鳴り、邪念を振り払って、リオンはそっと黒猫の頭に手をやった。黒猫はおとなしく、ナマエの膝に乗ったまま動かない。リオンはそのまま背中の方へ手を滑らせ、再度頭から撫でていく。猫は目を閉じずに、享受していた。
「おそるおそるって感じで優しくなでてるね」
「どんな加減で撫でればいいか分からん」
「そんな感じで大丈夫だよ」
からからと笑うナマエを時折横目で眺める。保護したという割には、毛並みはつるりとしており、リオンに威嚇もせず、元から飼い猫であるように見えた。
「この猫、どこで拾ってきたんだ」
「あら、興味持ってきた?」
「話題を提供しているだけだ」
「そう?ありがと。……そうそう、路地裏にいたんだよ。一人寂しそうにニャーニャーないていたの」
きっと、猫の鳴き声を聴いて、周りを見渡したり、慌てふためていたんだろうな、と思い浮かべる。
「それを見たら放っておけなくなって、…ちょうど用事も片付いてたから、母猫がくるまで見守ることにしたんだ。お母さん、この子の餌を探しに行ってるのかなーって。でも、いつまで経っても、母猫は現れなかった」
今度は彼女が黒猫の背を何度も撫ではじめる。リオンにはそれが、「大丈夫だよ、もう寂しくないよ」と言い聞かせているように思えた。そう言っている彼女の声が、リオンの体の中にもあたたかく響く。いい人間に拾われたものだな、と黒猫に語り掛けるふりをした。その瞬間、リオンを見上げる猫。タイミングが良すぎて驚く中、再び目線を正面の部屋の方に向けた。心の声が読まれたのだろうか。訝し気に猫を見やるリオン。我関せずの猫。
ナマエは母猫がどうなったのか、想像でも口にしなかった。…母猫がいなかったら、父猫がなんとかするものじゃないのか。リオンは疑問を口にする。
「そいつの父親はどうしていたんだ」
「あぁ、父猫はね、基本的に子猫の育児に参加しないんだって。だから、クロスケの傍にはいなかったと思う」
淡々と告げられた言葉が、リオンの胸の奥を余計に重くした。自分の境遇に重ねてしまった。きっと死んでしまったであろう、母親。子猫に興味のない父親。もしナマエがいなかったら、こいつはどうしていたのか。もし、自分にシャルティエやマリアンがいなかったら。そこまで想像して、考えるのをやめた。
「マリアンさん、準備に手間取ってるのかな。私、下行ってみてきていい?」
「……あぁ」
「じゃあ行ってくるね。クロスケをよろしく!そして苺のタルトをお楽しみに!」
強引にリオンの膝に黒猫を置くと、ゆっくりとした足取りで部屋を出ていった。
心を見透かされているな、と苦笑いがこぼれる。
リオンがイライラしたり、感情が不安定な時には、ナマエは別の何かをしたり、何もしゃべらず黙っている事が多い。リオンの気持ちが落ち着くまで距離を置くのだ。リオンが怒り散らしていたのも会って間もない内だけで、今では彼女に感情の主導権を握られているように感じる。人の扱いになれているのは、父親の仕事柄からだろうか。リオンはずっと疑問を抱いているが、詮索されるのを好まない分、相手にも求めることはなかった。同年代でありながらもリオンに対して落ち着いた態度をとるナマエを、奇妙に思いつつも、次第に、邪険に出来なくなっていた。
クロスケがリオンの膝から降りた。部屋の中を探索しはじめるのを、ぼうっと眺める。初めて訪れた地を知ろうとしているのか、壁や家具の匂いを嗅いでいく。やがて、部屋の隅に佇むと、リオンをじっと見つめた。よく見ると緑がかっている、黄色い目に映る自分は情けない顔をしているだろう。
「エミリオ」
捨てた名前を、猫につけてみた。思ったよりしっくり馴染んだそれに、自嘲の笑みがこぼれる。エミリオは、応えるようににゃあと鳴いてみせた。