「疲れたでしょう、主」
やさしい言葉とともに香の匂いがふわりと漂う。この香りは藤だろうか。誰かが蹲っていた私の肩に手を当てた。…何で蹲っているんだっけ?思い出そうとする力はなかった。このままでいい。何も考えず、楽な方がいいに決まってる。目を固く伏せたまま、声の主は私を「あるじ」と称した事に疑問を感じた。心当たりがない。
「あなたは俺を案じてくれた。あなたは、俺が傷つくたびに己を傷つけていた。それでも笑顔を絶やさず、俺の為にと尽力した。あなたは、俺の誇りです」
低く、心地よく感じる声は脳に響くようだ。彼の声色が織りなすやさしい言葉たちに聞き惚れる。ただ、自分がそれだけ立派な人間だった覚えがない。彼の誇りである資格はない、と思う。ずきずきと胸が痛む。蹲りながら首を振った。彼は、「ははっ」と笑う。
「あなたはそういう人ですからね。知ってます。ええ、知ってますとも」
彼は私の特徴をつらつら述べ始めた。
「あなたは、臆病で、弱虫で、でも、頑張ろうとしていた。必死に自分と戦って、努力して、努力して…」
聞いているうちに目が熱くなっていく。溜まりすぎた涙は目尻から溢れ、勝手にこぼれていった。そんな事はない。何も出来ていないはずなのに。
男がハンカチを掌に握らせた。
「でも、苦しんでいた。あなたを苦しませてしまった」
俺のせいです、と小さく震えた声を振り絞る男。目を開けた。長谷部が泣きそうな顔で私を見ていた。長谷部に手を伸ばすも、私の手は彼の体をすり抜ける。「あ、あ、ああああああ」と言葉にできない声をあげた。私はこんのすけからの通告を受け入れてしまったんだ。「もう一般人に戻ってもいいですよ。あなたは審神者として未熟すぎた」楽になりたかった私は、うなずいてしまった。
「間もなくあなたは、審神者の才を無くします」
長谷部の姿が消えていく。力が無くなる。もう彼の姿を見ることが叶わなくなる。
「あなたには平穏な世界が似合っている。きっと、世界を元通りにしますからーー」
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ひしゃげたハンカチを握りしめていた。鼻をすすりながら、あたりを見渡す。信号が青の交差点、たくさんの人が横断歩道を渡っている。今通勤中だっけ。立ち止まる私を、怪訝な顔をしながら避けていくのが3人くらいになった所で慌てて歩き出した。もう一回鼻をすすり、鼻の下を指で撫でようとした際、頬が濡れているのに気づく。凄い濡れている。信号を渡り終え、歩行者道路の隅に立つと鞄を探る。手鏡を取り出し、自分の顔を写した。まあメイクの崩れていること、崩れていること。人目を気にしながら、ちょうど握っていたハンカチを涙の跡に押し当てた。会社についてから、化粧室でメイクしなおすか。肩を落としながら会社への道を歩いていく。